―初めての業界人。簡単に、ひと言で言うと、平井堅にとっての玉田勝吾氏はそのような存在で、つまり、平井堅と最初に接触した音楽関係者が玉田氏というわけである。この方がいなければ、平井堅は歌手になっていなかったかもしれない、とは言い切れないが、みんながよく知るいまの平井堅とは異なるキャラクター性の歌手になっていた可能性は十分にあったのではないだろうか。そのふたりの出会いは1992年で、当時の玉田氏が在籍していたのは「ソニー・ミュージックエンタテインメントのSD、まさに“サウンド・デペロップメントする”という部署」だった。
「1970年代後半からずっとオーディションをしたり、新人を発掘するところだったんです。アイドルもやってましたけど、HOUND DOGやユニコーン、Xのようなバンドもいましたし、尾崎豊もそうですし、ぼくはそこの発掘担当。何十人というスタッフが全国各地にいて、基本は、ライブの情報が載った雑誌をチェックして、チケットをちゃんと買って、毎日ライブハウスへ行ってチェックしたり、地方のいろんなオーディションやコンテストに足を運んだり、審査員をやったり。あと、楽器屋。ちょっとしたライブができるところもあったので、とにかく率先して、おもしろい人がいないか探していたんですね。それと、オーディションは応募してくるというのがメインだけれども、ぼくらが探した人の育成もしました。可能性のある人たちをいち早くキャッチして……言い方はよくないけど、青田買いに近い動きもしていた(笑)」
―玉田氏の言う「オーディション」はいくつかの種類があって、平井堅が応募したのは『SME AUDITION ’93~Breath』。オーディションの開催年とふたりの出会った年が違うのは、玉田の言う「育成」の時間があったからだ。
「カセットテープが7~8000本送られてきて、それをSDの担当スタッフ二十数名で、一緒に、全員で聴くんですよ。それは、多数決じゃなくて、聴いた誰かが良いと思ったら残していくという、漏れがないようにするためで、ただ、どうしてもフルでは聴けない。1コーラス……1分半から2分くらい。これは残したいっていうのを100くらいピックアップして、その中に平井もいて。当時は男性R&Bシンガーやソウル系の歌い方をする人がいなくて、そこにぼくは引っかかった。ただ、そのときの曲が思い出せなくて……ボズ・スキャッグスかビリー・ジョエルだったような記憶があるけど(編注:実際はビリー・ジョエルの『ニューヨークの想い』)、それを聴いて、曲はブラックじゃないんだけど、透明感のある歌い方で、まず、あまりに歌がうまかった。ハイトーンボイスも含めて、“うわっ! これっ!きたー!”みたいな(笑)。ピッチ(音程)も正確だった。ぼくの中では、当時日本でソウルを歌えるシンガーは久保田(利伸)さんくらいしかいなかった。そういう人が、久保田さんがデビュー(1986年6月)してから次の世代ではいなかった」
―ソニー・ミュージックエンタテインメントへ送られてきたカセットテープのスタッフ全員試聴会で、平井堅の歌を良いと主張したのは、玉田氏だけだったという。
「みんなそれぞれ好きなジャンルがあって、ローファイやノイズ系が好きな人もいる中では“ちょっとどうなの?”という感じの若いスタッフも多かったけど、丁寧に歌っていたし、『Breath』は声に軸足を置いたコンセプトのオーディションだったから、持って生まれた声の輪郭と、歌のうまさと、聴いた人を説得できるなにかがあるってことで、“はい!”と、ぼくが手を挙げて。そのあと本人とコンタクトを取って、実際に生の歌唱を聴く機会を設けたんです。面接に近いようなものだったんですけど、どんな活動をしているのかとか、もしどこかで歌っているならそれを観に行くからとか……そこで平井が“バイトで歌ってるんです”と言うので、今度歌うのが上野のオールディーズバーということだったので行ったんです。平井のライブを初めて観たのがそこ。(エルヴィス・)プレスリーとかの50年代モノやロカビリーを楽しむ店で、お客も郊外から来ましたみたいな、雰囲気が独特。本人にとっては厳しい環境だったなとは思うんですけど、気持ちよく歌っていて、度胸あるな、平気でいるってすごいな、やっぱりうまいし、間違いないなと。で、終わってから楽屋で“いいステージだったね”とか“また打ち合わせをしようか”ということを話して」
―以降、『SME AUDITION ’93~Breath』決戦に向け、ソニー・ミュージックエンタテインメントのディレクターたちが審査するいくつかの社内予選が行われていくのだが、それにサバイブするための「プロデュース」も玉田氏の重要なミッションのひとつだった。
「どういう曲を歌っていこうか、どう動きながら歌おうか、どういうファッションにしようかということを、相当長い期間かけて作り込んでいった。ボイストレーニングや、SDで育成している人たちにギャラを払って箱バン(編注:専属バンドのこと。数多くのレパートリーを演奏することが求めらるため、技量を要す)を用意して、その箱バンと何度も何度もリハーサルをしたり、だから育成費もかなりかかりましたね。服……平井は服をあんまり持っていなくて、会社へ打ち合わせに来たときも都内でバンドやってる人とはぜんぜん違った。“なにその柄?”とか“どこで売ってんの?”みたいな(笑)。“靴を捨てろ”とか“いま持ってる服を全部捨てろ”ともぼくは言ったらしく(笑)、とにかく洗練されていってほしいなと思って。スタイリストの人にお願いして服のコーディネートをしてもらったり、靴は“買ってあげるよ”……いや、“おれのをあげようか?”って言った記憶もある(笑)。でも、抵抗はしなかった。本人は決戦大会に行ってデビューしたい一心だったから。歌手になるんだっていう信念がすごかった。歌うことに対する情熱と絶対的な自信があった。ただ、自分で自信があるとは言わなかったし、必死だったけど必死だとも言わなかった。なにを言われても素直に吸収して乗り越えていくタイプ。すると、ぼくだけじゃないんですけど、平井とスタッフは身内みたいになっていくんですよ。一緒にごはんへ行ったり、下北沢へライブを観に行ったり……“下北沢へ行くといい服あるよ”とか言ったり(笑)」
―最終的に、約1年がかりの育成期間を経て、平井堅は『SME AUDITION ’93~Breath』決戦でグランプリ受賞はならなかったが入賞し、デビューへの切符を手にした。
「何票入ったのかは正確に憶えていないんだけど、ぼくは、ディレクターが手掛けたいと思うまでに漕ぎ着けるためのスタッフだったので、認めてもらえたことはすごく嬉しかったですね。この業界でやっていく自信にもなったし。そのあとは、平井とディレクターとのお見合いをどうするか動いて、平井とぼくの関係性はそこまで」
―1995年5月にデビューした平井堅は、残念ながらヒットに恵まれない日々が続いたわけだが、玉田は「デビューからはなんにもしてないんですけど」と前置きした上で、「でしょ?」「ほら!」と思ったと、笑いながら2000年のブレイク時を振り返った。
「新人発掘をしていた側からすると、才能があるのにデビューできなかった人はたくさんいたし、デビューしてもブレイクするアーティストは現実的にはホントにごく一部。だからブレイクするとたまらないんです。仕事冥利。発掘スタッフはみんなそう思っているはずですよ」