INTERVIRE STAFF INTERVIEW

佐藤康広

㈱ソニー・ミュージックエンタテインメント SR国内第一制作本部企画制作部 次長

JSDファクトリー合同会社 代表(現職)

―1993年の「SME AUDITION ‘93~Breath」で入賞し、夢の歌手デビューを手中に収めた平井堅。しかしオーディションが終了してからデビュー・シングル『Precious Junk』が発売されるまで、1年以上の時間を要している。なにをしていたのか。そのことを誰よりもよく知る人物が、平井堅が初めて契約したメジャー・レーベルのSony Recordsで、当時、制作部長を務めていた佐藤康広氏。デビュー・アルバム『un-balanced』のプロデューサーでもある。
「もともと男性ボーカリストが大好きなので……久保田(利伸)の担当もしていたんですけど、探していたんですね。ただ、自分に引っかかる人がいなかった。ルーサー・ヴァンドロスやマーヴィン・ゲイといったソウル、R&Bのシルキーなボーカリストが日本にはいなくて、だから平井を聴いた瞬間、声質で、“これだ!”と思いました」
―先のオーディションで平井堅獲得に名乗りを上げたディレクターは他にもいたが、佐藤氏曰く、「たまたまぼくに下りてきた。やりたいですとアピールはしましたけど」。運があった、縁があったということなのかもしれないし、その両方があったということなのかもしれない。
「平井を担当することが決まってから最初に話をしたとき、どちらかと言うと平井は純粋なシンガーになりたがってたんですよね。他人の曲と詞で歌いたいと。でも、これだけ歌えて良い声を持っているんだから、一度は自分のオリジナリティを追求してほしいと伝えたんですよ。良いものができあがらなかったら誰かに頼むから焦らずやってみようよって。ただ、自分のメロディと自分の言葉で伝える表現者になってほしいというのはぼくの強いこだわりで、平井はそこまで考えていなかった(笑)」
―しばらくのあいだ、平井堅は東京・市ヶ谷にオフィスがあるSony Recordsへ定期的に通うことになる。
「まずは詞からということで、日記を書いてもらったんですよ。毎日書け、それを見せてくれと。最初は人に見せるって思いながら書くから美辞麗句を並べ立てていたんですけど、長く続けているとだんだん疲れてきちゃったのか、ぽろぽろと、コンプレックスも含めて赤裸々な部分が出てくるようになって、それからは、“これって平井自身の根本にあるものだよね?”みたいに、日記を通して会話をする作業をずーっとやっていましたね」
―デビューまでの準備期間、歌詞を書くために必要な作業は積極的にさせたが、佐藤氏はボーカルのレッスンに対しては消極的だった。
「しっかり歌えると思っていたので。変なクセを付けられるよりは原石のまま置いておきたかった。レコーディングで鍛えていけば良いとも思ってましたから、まずは詞だけ。で、そのあとに曲を作ろうという話になって、でも当時、平井はなんにも楽器ができませんでしたから、ある人に会わせたんですね」
―「ある人」とは、『片方ずつのイヤフォン』など、平井堅のキャリア初期の共同作曲者であり、キーボーディストでもある山下俊氏。
「僕のところにはたくさんデモテープが送られてきていたんですけど、中には作家希望もいて、良いメロディを書く人がいたんです。サラリーマンだったんですけど、素人が良いと思ったんですよ。手垢が付いていない人。山下くんはサラリーマンだったので週末に会社へ来てもらって、たとえば、“今度はバラード系の曲にトライしてほしいから、スティーヴィー(・ワンダー)のこんな感じの曲で”と言ってコードを弾いてもらって、それに合わせて平井がメロディを紡ぎ出していくという、アマチュアみたいなことをやらせていたんです」
―歌詞を書くために必要な作業と歌詞を書く作業、作曲をするために必要な作業と作曲をする作業は約1年続き、それを平井堅は淡々と、地道にこなしていったという。
「あんまり感情を露わにしなかったですね。やってみます、という姿勢がつねにあって、歌詞にしてもメロディにしても良いものを書くようになっていったので、たいしたもんだな、素質はあるなと。最初は共作が多かったですけど、その断片を当時、ぼくと一緒に仕事をしていた武部(聡志)さんとかプロのスタッフに聴かせると、“良いと思うよ”って言ってもらえたり、“こういうアレンジにしたらもっと良くなるんじゃない?”みたいな意見をもらったりもしました」
―最終的には30曲以上ができあがり、この中から「そのときの平井堅」を基準としたものを選び、レコーディングを開始。そこで佐藤氏があくまでもこだわったのは、独創性だった。
「稚拙と感じるところもあんまりいじらなかった。それこそデビュー・アルバムのタイトル、『un-balanced』。自分を表現したそのときの平井堅をそのまま出したかった。きれいにまとめたくなかった。サウンドもごりごりのブラック・ミュージックにするより、ちょっとにおいがする程度。平井はビリー・ジョエルやサザン(オールスターズ)が好きなので、本人の嗜好性も採り入れて、結果、AORに近いものになったんですけど、オケ(伴奏)を作るとき、その現場に平井は必ずいたんですよ。そこで、“どう?”って訊かれることも多く、すると平井はいつもはっきりと答えていた。新人の意見を聞いてくれるミュージシャンやスタッフばかりだったので、本人も良い経験をしたと思います」
―当初はデビュー・シングルとして『青空』、セカンド・シングルを『片方ずつのイヤフォン』、そしてこの2曲などを収録したファースト・アルバム『un-balanced』を3ヶ月連続で発表していく計画だった。が、変更になった。タイアップが決まったからだ。しかも、松本幸四郎(九代目。現在の二代目松本白鸚)主演、三谷幸喜脚本によるフジテレビ系ドラマ『王様のレストラン』の主題歌という超大型で、そのための新たな楽曲制作から生まれのが『Precious Junk』。平井堅ひとりで作詞と作曲を手掛けた力作で、そして1995年5月13日、この曲でついに念願のデビューを果たすことになったのだが、チャート・アクションはオリコンで最高位50位を記録するのが精一杯だった。
「平井は落ち込んだんじゃないかな。一気にいけると思っていたはずだから。そのあとも乗れない時期が長くて、でもそういうとき、たとえば(1998年に)『Ken’s Bar』を始めたりもしたわけですよ。最初から売れてたら『Ken’s Bar』はなかったんじゃないかなあ……って、自分の良いように解釈してますけど(笑)、本人には一喜一憂するな、絶対に諦めるなと言った憶えはあります。ガーンと売れてガーンといなくなるんじゃなくて、音楽シーンに長く残ってほしかったですから。平井にはアーティストになってほしかったですから」
―男性ボーカリストが大好きな佐藤氏が平井堅の担当になったのはたしかに運も縁もあった。でもそれだけで終わらせなかった。デビュー・イヤーの1995年の終わりで終了する担当期間中に数字的な結果は残せなかったが、将来を見据え、ソングライターとしての基礎を築くことにこだわった結果がどうなったかは皆が知るところ。佐藤氏は、人間の死と向き合うことで生命の尊さを力強く歌い上げた2017年6月発売の『ノンフィクション』を挙げ、こう語った。
「初めて聴いたときは震えましたよ、こういう曲が書けるようになったんだなって。あのときにいろいろやらせたことを出し尽くしたような感じがしたので、感動もしました。自分の身を削って、自分をさらけ出すのはアーティストである以上は宿命で、しようがないことなんですけど、だから人の心を打つんだなって思いましたね」

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