―平井堅のブレイクの陰にこの人あり、である。言うまでもなく、その陰には複数の存在があって、だから正確には、この人「も」あり、ということになる。ただ、重要なのはその人がなにをしたのかであって、しかもそれが、「そこまで!?」と言いたくなるほど極端かつ驚愕必至のことであったらどうだろう。平井堅のブレイクの陰には何人ものキーパーソンがいたのだが、北海道・札幌の「ミュージックショップ 音楽処」代表の石川千鶴子氏の着想と実行力は唯一無比のものだった。
「デビューして1ヶ月か2ヶ月くらいしてからだったと記憶しているんですけど、新人です、デビューしました、よろしくお願いします、って直接挨拶に来てくれたんです。キャンペーンの、いわゆる店頭挨拶。そういうことが当時はあたりまえのようにあって、人懐っこく接してくるアーティストもいれば、自分を強くアピールしてくるアーティストもいたんですけど、平井さんは、ほわーんとしていたんです。その雰囲気が、すごく良いな、おもしろい人なのかもと、わたしは感じたんです」
―1995年に平井堅と初めて会ったとき、石川氏は札幌にあったCDショップ「PALS21」の邦楽マネージャーを務めていた。そして、デビュー曲『Precious Junk』を初めて聴いたときの感想は、以下のとおり。
「めっちゃ歌うまいな、すごいな、声も良いな、と思いましたね。わたし、声が好きじゃないとダメなんですが、この人の声をこれからも聴いていきたいなって思ったんです。声に惹かれたんですね。それと、平井さんはソニーさんがイチオシでやっていきたいアーティストということだったんですが、お店を任されている自分が良いと思ったアーティストを、このお店から売り出していきたいという考えをするようになった中で出会ったのが平井さんだったんです」
―では、「このお店から売り出していきたい」という石川氏の野心はどのように具現化されたのか。
「まずお店にコーナーを作ったんです。店頭で平井さんの曲を流したところで、新人ですから本人の顔をお客さんはイメージできないわけです。となると、ビジュアル。それを見せられるのが店頭ですから。ソニーさんに対しては、ウチが応援しているということは数字でしか示せないので、とにかく売ること、他のお店より1枚でも多く売ることを考えましたね。スタッフにも呼びかけながら、自分も興味を持ってくれそうなお客さんには必ず平井さんの話をして買ってもらうみたいな、そうやって数字を作っていくことが自分のなかでできる最大限のことでした」
―しかし『Precious Junk』の売れ行きは、決して芳しいものではなかった。加えて、店頭展開は石川氏曰く、「縦1メートルくらい、横3メートルくらいの、かなり大きなコーナー」で、新人のデビュー曲のそれとしてはたしかに破格のサイズだったが、他のことに関しては「そこまで!?」と言うほどのアイデアが盛り込まれたものではなかった。驚きのポイントはそこではなかった。『Precious Junk』発売時の1995年5月ではなく、それ以降にあった。
「そのコーナー、ずーっと続けてました。6年くらいかな? そこは、そのときそのときの新譜のコーナーじゃなくて、平井堅のコーナーなんです。平井堅を知ってもらうために作ったコーナーですから」
―そんなことがありえるのか。いや、実際にあったことなのだが、スタッフから反対はされなかったのか。
「されないです、自分が責任者でしたから(笑)。ずっと応援していくと決めたアーティストはずっと応援していく、それが自分流。わたしがやると言ったことはやるんです(笑)。もちろん、限られたアーティストにしかできないことではあるんですけど、そのアーティストをお客さんに紹介したいと思っているのは自分なんです。だから、自分はこの人を応援しています、応援し続けていますということをお客さんに対して、お店の中で見せていきたかったから作ったコーナーなんです」
―平井堅コーナー、「PALS21」のスタッフから反対の声はなくとも「外部」からはあった。
「平井さんのリリースがないときもそのコーナーはずーっとあるわけじゃないですか。となると、営業担当は“平井堅じゃなくて別の新人アーティストをそこでやってください”って言うんですよ。でも、あなたにお金をもらってこのコーナーを作っているわけじゃないから余計なお世話ですって、喧嘩したこともありました(笑)。わたしは、コーナーを作ったことで、ほんとうに興味を持った人にはお店に足を運んでもらえるし、それを続けていくことで、お客さんも含めた平井堅を応援しようとするチームができあがっていくんじゃないかと思ったんです。」
―平井堅の名前が全国的に広がったのは2000年1月発表のシングル『楽園』がきっかけだが、それ以前から北海道における平井堅のCDセールスは、ブレイクとは言わないまでも、他のエリアより高い数字を記録していた。石川氏の言う「チーム」ができていたということか。
「3枚目(1995年11月発表のシングル『横顔』)くらいからですかね、ちょっとずつ良くなってきたかなと思うようになったのは。全体で言うと、北海道は全国シェアの3パーセントくらいなんですけど、平井さんに関しては20パーセント近くあったときもあって、もっとプロモーションしようよ、盛り上げようよ、ということを言ってた頃に出たのが『Love Love Love』(1998年5月)でした」
―平井堅の知名度、CDセールスが他のエリアより高かった理由は、1997年4月からAIR-G’の愛称で知られるFM北海道でレギュラー番組を持っていたことも挙げられる。
「ディレクターさんとの付き合いもあったので、ラジオと店頭でなにか掛け合いができないかなといろんな話をしていく中で、インストアイベントをやったりもしました。みんなで一緒に遊べるんじゃないかって思えるくらいイベント中の雰囲気は良かったですよ。それくらい北海道のファンは平井さんを受け入れていましたし、平井さんも北海道のファンに馴染んでいましたね」
―そして「玉光堂PALS21」の平井堅コーナーには、あるときから「願掛けポスト」が設けられた。
「平井さんに、なにか好きなことってあるんですかって訊いたら、“手紙を書いたり読んだりすること”って言うので、コーナーにポストを作ったんです。『目躍好映こ』(読み方:めやすはこ)って名付けたんですけど、その鍵は平井さんしか持っていなくて、だから他の人は開けられないし、中にある手紙も本人しか読めない。平井さん、札幌でラジオのレギュラーを持っていたので、収録のときにお店へピックアップしに来て、その手紙をホテルで読むのが好きだって言ってましたね。で、ポストは、平井さんがブレイクして、札幌でいちばん大きいホール会場……当時は厚生年金だったんですけど(北海道厚生年金会館、のちのニトリ文化ホールで2018年9月に閉館。キャパシティは2300席)、そこでソールドアウト出来たらこのコーナーからなくそうという約束で備えたものだったんですよ。2000年に『楽園』が売れて、すぐホールじゃなくて、(ライブハウスの)Zepp Sapporoでやって(2000年10月29日)、厚生年金でやるまでちょっと時間はあったんですけど(2001年9月16日)、アンコールのときにポストを持って出て来て、“みなさん、ありがとう”って、、、」
―そして石川氏は玉光堂から独立。2005年に札幌で「ミュージックショップ 音楽処」をオープンし、現在に至る。
「いまのお店は、商品の半分くらいがインディーズなんですよ、地元の。自分が手売りしてでも広めたいアーティストを見つけたいということと、インディーズの人たちになにか良いアドバイスをすることができたら良いなという思いで始めたお店なんです。今でこそインディーズというのはあたりまえのようにありますけど、2005年はまだとてもコアなもので、だから、インディーズをちゃんと取り扱っているお店があったら良いな、ファンの人たちが好きなインディーズのアーティストを自分たちで広めているので一緒になって盛り上げていけたらなと思ったんです」
―大切に、時間をかけて平井堅を応援してきたときと同じように、石川氏はあくまでもショップというリアルな現場から自身の声をダイレクトに届けようとしている。
「変な言い方ですけど、今はたくさんの人たちが応援しているわけですし、だから、もうわたしは平井さんを応援しなくて良いんじゃないかなって(笑)。ただ、デビューからの作品は全部置いてありますよ。平井堅の作品ならウチに来ればなんでもありますという、以前とは違う応援の仕方。彼のやってきたことはここにあります、ということを今は大事にしていますね。ほんとうに良い作品は、たくさんの人たちに届けたいと思っていますから。そこで、店頭にあれば、これはオススメですよ、良いですよって言ったとき、買ってみようかなとお客さんに思ってもらえますけど、店頭にないものをどうですか、お取り寄せしますよと言っても、買わないです。そういうやりとりを通してお客さんとの関係性を築いていくことは大事ですし、お客さんにはなんでも直接伝えるべきですよね。商品の横にいろんなことを書いた紙を置いて、売れるとそれ(ポップ)が良かった、面白かったと評価されるのは違うかなって……作品を作ったアーティストとそれを買ったお客さんの支えになる、わたしたちスタッフはそういう存在でないといけないと思うんです」