SPECIAL INTERVIEW

南谷成功

舞台監督

―「名だたるアーティストのライブをいくつも手掛ける大ベテランの舞台監督」。南谷成功氏をシンプルに紹介するとこうなるのだが、さて、「名だたるアーティスト」とは誰なのか。それはサザンオールスターズであり桑田佳祐でありエレファントカシマシであり福山雅治でありMr.ChildrenでありGLAYであり、その他にも名前はまだ「いくつも」挙げることができるのだが、平井堅のライブもこの方の手によるものである。では、どれくらいキャリアの長い「大ベテラン」なのか。サザンをサンプルにするとじつにわかりやすい。
「サザンがデビューしてから2年くらいのときだったかな、1980年の年末に『コンサートツアー ゆく年・くる年』というツアーをやったんです。そのお手伝いをちょっとして、次の年のツアーから本格的に参加するようになりました。だからサザンだけに関して言うと、ぼく、今年で40周年になります。」
―それでは、平井堅はいつから手掛けているのだろうか。
「最初は鎌倉でした。フジテレビ(721、現在のフジテレビTWO)の収録で、大仏の前にステージセットやPA(ピーエー。Public Addressの略。大人数に音を伝達するために必要な音響機器の総称)や照明を持ち込んで行ったライブです。それ以来、ずっとになります。もともと、平井さんのライブはぼくの会社(南谷氏が代表取締役を務める舞台監督会社、ボートマン)の、別のスタッフが担当していたんですが、この頃から平井さんのライブの規模が変わってきたんですね。そうなるとサブのスタッフのフォローが必要になってくるので、担当が二人以上の体制になるんです。ぼくがサブで入る場合もありますし、いろいろなんですよ。」
―『Acoustic Live in 鎌倉大仏』が高徳院大仏境内で行われたのは2000年9月15日なので、平井堅に関しては今年で20年ということになる。こちらも十分に長いのだが、そもそも「舞台監督」とはどのようなことをする仕事なのだろうか。
「コンサートであったりイベントであったり、芝居もそうなんですけど、それを統括する責任者ですね。音楽で言うと、アーティスト、それからプロデューサーや演出家の方たちの話をいろいろと聞いて、それをうまくひとつにまとめて舞台化する役割で、だから、そのライブを成立させるために必要なあらゆることを把握しておかないといけないんです。まあ、簡単に言てしまうと、なんでも屋ですかね。」
―当然、楽曲も把握しておく必要がある。
「担当するアーティストが決まると、そのアーティストの音を聴くわけですけど、平井さんは歌詞が良いと思いましたね。曲を聴くとすぐに景色が浮かび上がるので、泣けてくるんです。鎌倉でのライブのリハーサルのとき、生で聴いた『キャッチボール』は泣けました。当時は『楽園』が流行っていたんですが、ぼくには『楽園』より実は『キャッチボール』の方が響いていました。他にも良い歌詞はたくさんありますけど……『桔梗が丘』も良いですし、あと『瞳をとじて』です!初めて聴いたときは立ち直れなかった。心に刺さり過ぎて驚いたんです、こんなにもすごい曲を書く人なのかと……こういうこと、面と向かって平井さんには言ったことはないですけどね(笑)」
―加えて、歌のうまさも南谷氏は絶賛したのだが、技量以上の魅力を平井堅には感じると言う。
「歌バカですからね、平井さんは。歌うことに対する熱い気持ちは誰よりも勝っているんじゃないかと思うくらい一生懸命なんですよ。絶対に妥協しない。頭が下がります。そういう仕事に打ち込む姿勢に惚れると言いますか、平井さんの魅力的なところなんですね。だから、ステージセットも照明も演出も平井さんの歌を邪魔するものにしてはいけないんです。ぼくらがすることは、あくまでも、サポート。平井さんをサポートするためだったらなんでもやります。」
―「なんでもやります」と言う南谷氏だけに、トラブルが起きても慌てない。2001年の8月と9月に全国で展開した4枚目のオリジナルアルバム『gaining through losing』を携えたツアーの序盤、8月17日の熊本市民会館公演のあとに起きたアクシデントを笑顔で振り返ってくれた。
「その次が沖縄だったので、鹿児島からフェリーで機材を運ぶ予定だったんでですが、台風でフェリーが使えなくなってしまったんですね。だったら飛行機で送るしかなくなるんですが、熊本と宮崎と鹿児島には機材をたくさん載せられる大きな飛行機がなかったので、トラックで福岡空港に運搬したんです。それでもすべての機材を飛行機には載せられなかったので、それにあわせたステージの図面をぼくが引き直して、PAと照明は現地調達して、それまでとほぼ変わらないクオリティのステージをなんとか作ることができたんですね。ライブ自体も問題なく成立しましたし、長年やってると、そういう問題も乗り切れるのかなと……ぼくは楽しんじゃうタイプということもあるんですけどね。こうしたらなんとかなっちゃうんじゃないかって、良いほうに考える。それと、平井さんのスタッフが最高だということもありますね。結束力、団結力がすごい。協力的。そうならない現場もたくさん見てきたので、余計にそう思いますね。なにか問題が起きたり、あと平井さんが“こうしてほしい”と言ったら、ひとつの方向へみんながすぐ向かうんです。愛情があるんですね、平井さんに対して。」
―南谷氏にも愛情はある。
「平井さんが“今度のライブでこんなことしてみたい”って言ってきたら、それを実現させるのがぼくらの仕事なので、無理かなと思っても、なんとしてもやってあげたいって思うんですよね、どうやったらできるのかを考えます。」
―南谷氏は平井堅のデビュー20周年のタイミングで行われた全国アリーナツアー『Ken Hirai 20th Anniversary Special !! Live Tour 2016』における「無理」について語ってくれた。気球に乗って場内を一周した『KISS OF LIFE』のときの演出がそれである。
「平井さんが気球に乗って歌うアイデアを出してきました。ただそのアイデアは、ドーム会場でやることなんです。アリーナ会場は、一般的には大きなサイズの会場ということになるんですが、気球を上げるとなると、天井が低いんです。だから、高さをどうするかとか、いろいろ計算をして、それと風船。ドームであれば大きな風船ひとつで済むんですが、そのサイズの風船はアリーナには入らないので、小さな風船をいくつも集めた気球にしたんです。この演出で全国を廻ったのは平井さんが初めてです。同じアリーナでも天井の高さやサイズが違うので、じつはとても難しい演出なんです。」
―平井堅は「怖いこと」もリクエストしてくる。デビュー15周年のタイミングで2010年12月23日に京セラドーム大阪で行われた『Ken Hirai 15th Anniversary Special !! Vol.4』におけるオープニングの演出がそれである。
「平井さんがステージの上からゴンドラに乗って降りてくる登場の演出は、もちろん最初にぼくが試しましたよ(笑)。どれくらい危険なのか、それともまったく安全なのか、自分でやってみないとわからないことじゃないですか。もうね、すごかったですよ。怖かったです(笑)。まず、ステージ後方から上に行って、そのあとステージ前方へまっすぐ移動して、ライブが始まったらそこからステージへ降りてくるという流れなんですけど、本番の10分か15分くらい前からずっと上で待っていないといけないわけです。平井さん、高所恐怖症なのによくやったなと思いますね。チャレンジ精神、ものすごいある人なんです。“こんなことしてみたい”って、いつもぼくに言ってくるんですよ。」
―それは、より良いライブをファンに披露したいとつねに思っている平井堅の意思の表れであり、これはもちろん南谷氏にもあるものだ。
「この仕事、いつも前を向いてやってますから、今までになかったこと、新しいことを取り入れたいって思うんです。だから、海外へ芝居を観に行くこともありますし、新しい機材を探しに行くこともあります。勉強は必要ですね。勉強すると、次のライブで、次のツアーでなにか活かせるんじゃないかって、考えるきっかけにもなりますから。」
―南谷氏はどうしてここまで熱心なのか。学生時代のアルバイトがきっかけだった。
「テレビ局の仕事がしてみたくて、フジテレビの美術部でバイトをしたことがあるんです。そのとき、フジテレビ開局20周年記念の『全国縦断紅白歌合戦』(1979年)という番組があって、その現場に行ったんですね。各地の会場にお客さんを集めた生中継を交えたものだったんすけど、そこで、拍手や歓声を生で聞いたとき、“自分が進む道はこれだ!”と思ったんです。テレビは視聴率ですから、結果は無機質な数字を確認することになるわけですが、ライブはすぐそこにいるお客さんの喜んだ姿を見ることができるので、これはものすごいことだなと、感動したんです。だから、ぼくはステージ側の人間ではあるんですけど、いつもお客さんの立場になって物事を見るので、アーティストがなにをやったらお客さんは喜ぶだろうかとか、そういうことばっかり考えてます。ぼくが担当するアーティストもみなさんそうですし、平井さんもそうです。平井さんの“こうしたい”が実現できれば、平井さんのライブを観に来たお客さんを笑顔にすることができるわけですから、そういうものをこれからも作り続けていきたいと思っています。」

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