―1985年に始まったラジオDJとしての活動によって生まれた信頼と人脈。2011年11月27日、大阪城ホールで行われた前代未聞のイベント『HIRO T’S 60th BIRTHDAY Daddy's Reborn Jam』とはつまり、そういうことだったのではないだろうか。「よく憶えてますよ。あんなことしてもらえてどうしましょ、っていうね。ありがたかったです。」と、当時を笑顔で振り返ったのはそのイベントの主役であり、2019年にラジオDJとしての活動から引退したヒロ寺平氏。
「あの日、大阪城ホールに集まったお客さんたち、アーティストたちは、僕の還暦を祝うために来てくれたんですよね。DJ冥利に尽きるわけですよ。」
―その日は寺平氏の60回目の誕生日当日だったわけだが、趣旨がなんであれ、ひとりのラジオDJのために大阪城ホールという大会場でのイベントが企画、開催されたことはまったくもって画期的だった。
「普通は、DJである以上、ステージに出て行って、“みなさん、こんばんは。今日は楽しんでいってください”って言うんでしょうけど、僕は祝ってもらう立場だったのでまったくそれをさせてもらえなかった。最初にステージに上がって紹介されたらすぐ、ステージが見やすい向こう正面(アリーナ席フロア後方の中央部)に連れていかれて、そこでイベントが終わるまでじーっと座ってマイクすら持てず(笑)」
―大阪城ホールには寺平氏に縁のある、すなわち、寺平氏のラジオ番組を通じ、寺平氏が強く推し、応援を続け、交流を重ねたKAN、ゆず、森山直太朗、押尾コータローといったアーティストが20組以上集まり、代わる代わるパフォーマンスを披露。加えて、ビデオメッセージという形での参加で寺平氏の還暦を祝った人たちもいたのだが、そこで平井堅である。
「GLAY、aiko……いろんな人たちからのお祝いコメントのビデオが届いていて、今日はおめでとう、僕はそっちに行けなくてどうのこうの言う平井堅くんのビデオも流れたんですけど、(場内のスクリーンに映し出されていた平井堅が)移動し始めたと思ったらいきなり本人がステージにバン!と出てきて、そりゃもうびっくりしましたよ。お客さんたちは平井堅くんがシークレットゲストだったことを……僕すらも知らなかったわけですからね。で、会場がドッカーン!となったところで見事に歌い上げてくれたんですよ。」
―観客と寺平氏を驚かせ、大喜びさせた平井堅が歌ったのは、その会場にいた誰もが知る『瞳をとじて』でも『POP STAR』でもなく、『キャッチボール』。1996年12月にリリースされた2ndアルバム『Stare At』のラストを飾るこの曲の一般的な認知度は決して高いものではないが、あえて歌ったのは理由があった。
「平井堅というアーティストがざわざわし始めたとき、一回ライブ観に行ったろと思って、南港にあったライブハウスに行ったんですよ。」
―3rdアルバム『THE CHANGING SAME』を携え、6都市7ヵ所のライブハウスを廻った2000年秋の全国ツアーのことで、大阪公演は11月11日。2012年に閉館となったZepp Osakaが会場だった。
「アコースティックセットで『キャッチボール』っていう曲をやりはったんですね。その歌詞の中には平井堅くんの苦労と、親に対して思っていることがものすごく素直に入ってて、僕、客席で聴きながらちょっと涙したんですよ。要するに、上京して、歌手になって、がんばって東京でやってるんだよねって親は信じてくれてて、でもとくにまだ結果を残せずにいて、その申し訳ないと思う子供の気持ちと、子供の頃にお父さんとやったキャッチボールの思い出を重ねた、すっばらしい曲なんですよ。」
―そしてなんと、寺平氏の席の近くにはその「お父さん」がいたのであった。
「ありがたいことにライブは関係者招待で行かせてもらって、Zepp Osakaの2階は関係者席が多かったんですけど、そこに、じつは、平井堅くんのお父さんも来てたんですよ。平井堅くんと同じように彫りが深くて(笑)、挨拶することはなかったですけど、お父さんを横目で見ながら『キャッチボール』を聴いて、僕はもう、ガーン!と打たれてしまったわけです。」
―当時の寺平氏はFM802で、月曜から木曜の『HIRO T’S MORNING JAM』、金曜の『HIRO T’S FRIDAY MORNING JAM』という冠番組を持っていた。どちらも朝6時にスタートする午前中の生番組で、寺平氏はディレクターを兼任。番組構成やオンエアする楽曲の選曲もひとりでこなしていた。
「平井堅くんが超優秀なシンガーソングライターとして飛び立ちつつあることを僕は『キャッチボール』という曲で確信して、だからもっと彼が大きくなる助けになれば良いと思って、レーベル担当からも誰からも何も言われなかったけど、ライブを観たあと、番組で『キャッチボール』を意地になってかけ倒したんです(笑)。だから僕にとっては記憶に残る曲でもあって、それを歌われたわけですからね、もう泣きそうになりましたよ。」
―つまり、『HIRO T’S 60th BIRTHDAY Daddy's Reborn Jam』における平井堅のパフォーマンスは、寺平氏に対する感謝の意を込めたものだった、というわけである。
「僕のようなDJは、滑走路だと思うんですよ。飛び立つ準備ができている飛行機はいっぱいあって、これがアーティストたちというわけなんですけど、彼らは飛び立つ準備はできていてる。つまり、楽曲はあるんだけど、どうやって飛び立っていいのかがわからない。だから、それを見つけて、僕が後押しをして、ひゅーっと空に飛び上がっていったら、あとは自分でクルージングをしなさいねって、そういうスタンスで僕はDJをやっていたんです。」
―数多くのアーティストが寺平氏の番組で楽曲を紹介され、そして、ときにゲストとして招かれた。平井堅も幾度となく「後押し」された。
「ゲストが局入りしたら、普通はウェイティングルームでアーティストと打ち合わせするんですよ。今日はこういう流れで、みたいな。アーティストはプロモーションで来るわけですからそのためのステップがあるわけですけど、僕は予定調和が大嫌いなので、誰がゲストであろうとまったくノー打ち合わせ。いきなり“せーの!”で始めるインタビューだったんですよね。だから平井堅くんのときも……初めての僕の番組出演がどの曲のプロモーションだったか憶えていないけど、いきなり奥目の話だった。彼も奥目で僕も奥目なんで、“奥目やなあ”って言うてきたから、“君には負けるわ!”って言い返して(笑)。彼って平気で失礼なことを言うんですけど、僕もそうで、だからそういう、失礼なことの言い合いをそのままオンエアに乗っけるみたいな、予定調和がないところにピタッ!とハマる男なんですよ、彼は。ぶっちゃけ、おもろい奴。ただ、間違いなく言えるのは、毒を吐いてはいるんだけど、その毒には絶対に愛情があるってことで、だから絶対にムカッとはしない。それはお互い、わかってる。」
―平井堅はサービス精神が旺盛なので、瞬発的にボケ、ツッコミを交えてトークを盛り上げることがよくあるが、寺平氏の番組出演時のそれは通常比2倍増し、3倍増しだったように感じられた。
「初めて会ったときから平井堅くんとの波長は合ってたと思います。構えた感じ、飾った感じもなかったので、最初からものすごく自然体で話すことができた数少ないアーティストのひとりですね。それと、平井堅くんに限らず、僕は、僕のリビングルームへようこそっていうつもりで番組に来てもらっていたので、トークをするとき、ゲストが平井堅くんだったら平井堅くんと二人っきりになるんですよ。関係者やレーベルの人は廊下からガラス越しで見てもらうようにして、ゲストとはカジュアルに話す雰囲気にしていました。」
―二人は、カジュアルにメールをやり取りする関係にもなった。
「あの人のメールは素っ気ないですよ! ただ、僕はいろんなアーティストたちとメールのやり取りを、いっぱいするんですけど、間違いなくメールの返信がいちばん速いのは平井堅くんです。ずーっと彼は携帯を手に握ってるから(笑)、ほんと、間髪を入れず返ってくるんだけど、間髪を入れず返ってくるぶん、びっくりするくらい文章は短い。ぶっきらぼう。でも、そういうぶっきらぼうなところが彼のトークの味になっているとは思うんですけどね。」
―しかし、ぶっきらぼうじゃないメールがわりと最近送られてきた。
「今回、このインタビュー企画を受けることになったから持ち上げておくなー、ってメールしたら、“誉めといて”って、絵文字のハートマーク付きで返ってきて。そんなん初めて(笑)。あとそのとき、真っ赤なガウンを着て、愛犬を抱いてソファーに座ってる僕の写真も送ったんですよ。そしたら、“しっかし赤いガウン似合うね~”って、それも(黄色い笑顔の)絵文字付きで。ちょっと成長したなあと思った(笑)。おもろかったです。」
―平井堅に送信した写真は、寺平氏の公式ブログ『悠遊素敵』の2021年1月17日更新分の『Happy 15th Birthday!』にアップされているものと同じなので、気になった方はぜひアクセスしてみてほしい。ちなみに、くだんのメールで“tt可愛い~”と、犬への反応も忘れていなかったのはさすが犬好き平井堅。“tt”(ティティと読む)とは寺平氏の愛犬、ティーカッププードルの名前で、そしてインタビューの最後に、25周年を迎えた平井堅に何かメッセージをお願いしますと伝えると、寺平氏からは以下のような言葉が返ってきた。
「失礼を顧みずに、25年なんてまだまだちゃうか? 俺、35年がんばったから。あと10年はエンタテイナーとしてみんなを喜ばせよ! そんなメッセージで(と、ニヤリ)」
―そしてこのあと、ぼそっと、「通過点でしかないやろうし」とも言った。
「自分のこと、“歌バカ”って言うてるやんか。まさにそれですよ。(デビュー曲の)『Precious Junk』のときの彼と最近の彼では、音としての歴然とした違いはあるけど、僕の印象では、あのときも今も変わらないずっと同じ、シンガーの中のシンガーやったと思います。1から10までシンガー。歌うために生まれてきたような人。根っからのシンガー。それはこれからも変わらないでしょうし、そう思える人、そうはいないと思います。」