―平井堅のデビュー25周年記念の連載インタビュー企画もいよいよ大詰めの24人目。ひょっとすると、この方が登場することを予想していたファンはいるかもしれない。なんたって歌手・平井堅と誰よりも近い距離で、誰よりも長く、誰よりも密に過ごしてきた人物だからで、平井堅がSony Recordsと契約し、のちにデビューアルバム『un-balanced』(1995年7月発表作)の制作へと繋がる作詞・作曲活動をしていた頃に二人の関係はスタートした。
「所属事務所が決まり、そこで僕が手を挙げて、正式に僕が担当になって、それから間もなくアルバムを作り始めましたから、デビューの日の一年半ほど前あたりからずっと僕が担当ということになりますね。」
―こう語るのは平井堅のマネージャーを「ずっと」務める平井堅の所属事務所、ピンナップスアーティストの大滝良成氏。
「よくここまでアーティストもマネージャーも続いたな、続けてこれたなということが実感としてありますね。デビューから数えても25年、四半世紀ですから。同じアーティストをずっと担当し続けているマネージャー、いるとは思いますけど、あんまり聞かないんですよね。」
―音楽業界、たしかにマネージャーの担当替えを定期的に行う事務所のほうが圧倒的に多い。もちろんそれは期間も含めて事務所それぞれの方針であって、それと業務内容。アーティストのスケジュール管理といった超基本的なことはどこも同じだが、それ以外、いや、それ以上のことと言ったほうがわかりやすいかもしれない。こちらは担当マネージャー個人のポリシーと言うべきか。
「人によるんじゃないですかね。アーティストとのプライベートな付き合いをカットするマネージャーはいると思いますよ。ビジネス面だけに徹すると言いますか。でも、なんでも来いって、胸を張るわけじゃないですけど、なんでも処理してあげたいと、僕は思うんです。だって全部が繋がっていくと思うんですよね、曲を作るにしてもメンタル的な部分は関係してくるわけですから。病院の予約どうしようかって、平井は真面目だからずっと考え続けるんですけど、そんな状態でいたら良い歌は歌えない。僕はそう考えるタイプ。アーティストのストレスは、それがどんな些細なことであっても、なるべく減らしてあげたいんですよ。」
―ズバリ、音楽的なことに関してはどうだろう。
「僕は音楽をやってきた人間ではないですし、でもそれは当然、彼はわかっていることですから、音楽の細かい仕組みに関する相談はあまりないです。ただ、曲ができたら、こう感じた、この歌詞はどうかな、みたいなことは毎回伝えますよ。それでなにかが変わることもあれば変わらないこともある。ただ、一般的目線を含めた上での意見は言い続けるようにしています。」
―これまで平井堅から打ち明けられた悩みの中で深刻なレベルだったものを挙げてほしいとお願いしたところ、大滝氏は少しのあいだ静かに笑い続けたあと、「じつは、そんなにないんですよ」と答えた。
「インタビューで何度も“『楽園』(2000年1月発表作)が最後のシングルになっていたかもしれない”とは言ってましたけど、本人はそう思っていなかったはずですよ。それはあくまでも契約の話のことであって、契約が終了したら別のレコード会社へ行ってまたシングルを出せば良いという気持ちは持っていたと思います。」
―デビューからブレイクまで約5年を要したわけだが、そのあいだ、平井堅の音楽活動に対するモチベーションを大滝氏はどのようにキープさせていたのだろうか。
「ヒット曲が出なくても、このままではなにもできない、やり場がないという気持ちでいたわけではなかったですし、それは僕がそうさせなかったと言いますか、つまらないことを考える余裕を持たせないようにしていましたね。運が良いことにbayfm(千葉)、CROSS FM(福岡)、AIR-G’(北海道)など、ラジオのレギュラーをつねに持っていたので、番組は週に1回、より良い内容にするにはどうすべきか、かなり練っていましたし、いっとき、生歌を毎週披露するコーナーを各局でやっていて、でも地方の局へミュージシャンを連れて行けないので、ピアノの鈴木(大)くんの家へ行って打ち合わせをしたりオケ(伴奏)を作ったり、手間はかけていたんです。その後に毎月1回の”Ken’s Bar”も始めますし、、、。」
―曲作りも続けていた。1998年、1999年の初期の『Ken’s Bar』ではいくつかの未発表曲が披露されていて、なんと言っても『even if』(2000年12月発表作)というタイトルに変わった『バーボンとカシスソーダ』が有名だが、のちにレコーディングされた曲は他にもある。アルバム『SENTIMENTALovers』(2004年11月発表作)収録の『言わない関係』、アルバム『FAKIN’ POP』(2008年3月発表作)収録の『Pain』、そしてあの曲。
「『瞳を閉じて』。当時は漢字表記だったんですよね。映画(『世界の中心で、愛をさけぶ』)のタイアップの話をいただいてから歌詞を修正して完成させたのが『瞳をとじて』(2004年4月発表作)なんですけど、失った彼女のことをもっと具体的に歌っていて、かなり内省的だったんですよ。ただ、メロディ、曲調はほぼ同じです。」
―1999年12月19日、CLUB CITTA’(川崎)における『Ken’s Bar』のアンコールでは、翌月にリリースを控えた『楽園』をいち早く披露していた、もちろんアコースティックスタイルで。
「『Ken’s Bar』を始めた頃は1ヵ月に1回のペースの開催で、1回とは言え、選曲をしたりアレンジを考えたり練ったり、リハーサルを含めたら結構な時間を要するんです。となると、スケジュールって結構埋まってきちゃうものなんですよ。あとで彼から“仕事の鬼”と何度も言われましたけど(笑)、さすがに意図的なスケジューリングだったとは言い返せなかったですね。」
―そして『楽園』の大ヒットを機に仕事のオファーが殺到、超多忙な日々がスタートする。
「僕のスケジューリングが悪かったせいもあるんですけど、じつは僕、2001年、2002年の記憶がほぼないんですよ。先日、手帳を見直したら予定が埋まりまくっていて、それは、ヒットという結果が出たことで急に勢いがついて、それに流されて仕事をこなすようになってしまったからでもあるんです。登った山をすぐ下りるつもりはなかったですけど、この勢いは持続させないといけないとか、もっと上へ登ろうとか、まわりの人たちのいろんな思惑が蠢いていて、それと、5年苦労していると5年分の恩人がいまして、こちらとしてはお返ししたい素直な気持ちがあるので、そういう人たちからのオファーは全部引き受けて、すると、記憶がなくなるくらい働くことになるわけですよ。だから、僕からしたら、いつ来るんだいつ来るんだと思っていたことではあったんですけど。」
―大滝氏の不安は的中してしまった。平井堅も疲労困憊、しかも「もう歌えない」と直訴されてしまった。
「休ませる以外にないなと思いましたね。話を聞くと、ストレスがとにかく大きかったようで、あと、それまではR&Bのちょっと怖いイメージがあったのか、街を歩いても近寄って来る人はあんまりいなかったようですけど、『大きな古時計』(2002年8月発表作)から大きく変わってしまって、街を歩けば老若男女から“あ、『古時計』のお兄さん!”と言われることもかなりあったようで少ないプライベートな時間もそんな様ではリラックスできないですよね。それと社会現象を経て歌うことが怖くなっていた、歌詞を間違えたらどうしようと、歌う前には常にプレッシャーに怯えていましたし、、、。そこで、ニューヨークへ行かせる事にしたんです。」
―とは言え、2003年のニューヨーク生活、完全休養というわけではなかった。
「向こうにいたのは3ヵ月半くらいで、僕は月に一回、ニューヨークへ行ってましたよ。当時、J-WAVEでレギュラー(『OH! MY RADIO』)を持っていたんですけど、J-WAVEのスタジオがニューヨークにあったのでそこで収録をしたり、『Ken’s Bar』(2003年12月発表のカバーアルバム)のレコーディングをしたり、そのときに最低限こなさないといけなかった、本人でなければできない仕事だけはお願いしていたというわけなんです。ただ、仕事以外の話はしなかったです。仕事をした日の晩は一緒に食事をしましたけど、その他の日は会わないようにしていましたし、“どうだ?”ともあえて訊かなかったです。」
―ニューヨークから帰国後、平井堅のスターとしての生活は早々にスタートした。
「会うたびに肌感で、心が晴れやかになっているような気はしていたんですが、当時の手帳を見てビックリしました。ニューヨークから戻った2日後に撮影を入れていたので、やっぱり僕のスケジューリングは異常だったと思いましたね(笑)。でも、どうしてもやらなければならない仕事が、たくさんあったということなんです。」
―そのような毎日が始まるきっかけとなった2000年のブレイクが、平井堅のマネージャー生活においてもっとも嬉しかったことのひとつであったと大滝氏は振り返る。
「正直、『楽園』のときは急なことが多くガムシャラにただ動いていたので、あまりピンと来なかったんですけど、アルバム『THE CHANGING SAME』(2000年6月発表作)のヒットは嬉しかったですね。当初の予定にはないスケジュールで、時間がない中、無理矢理作ったアルバムなんですけど(笑)。来月出しましょうくらいの急なことで、レコード会社の勢いに乗って寝ずに作ったアルバムなんですよ。」
―初めてチャート1位を獲得し、初めてミリオンセラーを記録したアルバムなのだから、嬉しかったと振り返るのは当然のことかもしれない。そして、その後のアルバムも連続で大ヒットを記録するのだが、『THE CHANGING SAME』のようなアルバムが制作されることはなかった。男性R&Bシンガーとして音楽シーンの最前線に躍り出た平井堅だが、ブレイクから2年後にはそのような紹介をされることはほとんどなくなっていた。ポップシンガーとしてのイメージ戦略と確立に成功したということなのだろうか。
「劇的なことになっていたとしてもそれは結果論。『楽園』もそのとき生まれたアイデアがおもしろいからやってみただけのことで、R&Bでずっとやっていきますという考えも、R&Bはもうやりませんという考えもなかった。そのときそのときに歌いたい歌があって、それを歌い続けて今があるんです、みたいなカッコイイことを言うつもりはないけど、簡単に言うと、言葉にすると、そういうことなんです。」
―大滝氏は「ウチのアルバム作りに具体的なコンセプトは必要ない」とも付け加えた。
「『THE CHANGING SAME』のときでさえそれはなかったですよ。R&Bを意識はしましたけど、それは、R&Bのアルバムにしたいがための意識ではなかったですし、R&Bのアルバムにしたかったのなら『Love Love Love』は外すべきだったのかもしれないし。良い曲を散りばめる、そういう発想でアルバムはいつも制作しているんです。」
―2021年5月12日にリリースされる10枚目のオリジナルアルバム『あなたになりたかった』もいつもと同じスタンスで制作し、完成させた。
「アルバムの締めとなる曲は毎回最後に録っていて、収録する曲が全部見えてからアルバムのタイトルは決めますし、全曲シングルのつもりで作っているとまでは言わないですけど、1曲1曲が勝負という考え方はずっと同じですし、これからも変わらないと思います。」
―「1曲1曲が勝負」の積み重ねとして出来上がるものが平井堅のアルバムであり、「1曲1曲が勝負」の積み重ねが平井堅の25年間であったのかと尋ねると、「そういうことなのかなぁ」とのことだった。
「時代を読むことは大切ですけど、追い続けられるものでもないし、追い続けるのもどうかと思いますし、だからこれからも焦らず、今まで以上にマイペースに活動していってほしいと、マネージャーの立場としてはそう思ってます。平井の場合、良いも悪いも、歌手を職業にしていない感があって、生活のため、お金のためにやってないとこは昔から変わっていなくて、歌うことが好きだから歌いたい……いや、今はつねにベストな状態で歌いたいという気持ちに変わっていると思うんですけど、そこで僕のやることは変わらないです。彼を作り上げることではなく、ベストな状態で歌えるよう支えていくだけですから。」